2014年3月14日金曜日

新自由主義に強奪されたフェアトレード

コーヒーは好きだし、フェアトレード・コーヒーやオーガニック・コーヒーなんかにも興味はある。 まあちょっと高いけど、品質はそこそこ悪くない。 ただ、オーガニックは別として、コーヒー屋の店頭に並んでいる品揃えの一種としてのフェアトレード・コーヒーというのは「何か、違う」という気がして仕方がなかった。 かといって、正統フェアトレードの作法に従うのも、正直言って少々疲れる。毎日特定の種類のコーヒーだけを飲み続けるというのもアレだし。 いや、そもそもコーヒーという飲み物そのものが、極めて帝国主義的だったりする。 コーヒーだけじゃなくて、チョコレートも砂糖も、うむ帝国主義って、なかなかおいしいものなんだ…というのはともかく、帝国主義と「公正貿易」というのはいかにも矛盾している。
そんなことを考え始めるとキリがない。フェアトレードだの帝国主義だのの矛盾に無駄に悩まず、普通の不公正貿易コーヒーを愛飲している、というとウソになる、単に安くておいしからいいや、といったストレートな理由で不公正貿易コーヒーを飲んでいるわけだ。
そんなある日、韓国のチャムセサンに掲載されていた「新自由主義に強奪されたフェアトレード」というテキスト(原文韓国語)を見つけたのだけど、これがなかなかおもしろかった。 韓国でも最近、フェアトレードが流行しているそうなんだが、やっぱり韓国の左翼もフェアトレードについては似たようなことを感じているらしく、そのあたりの議論のタネとして(週例討論会の資料だ)、フェアトレードをめぐる話題がまとめられている。
討論会用のテキストということもあって、必ずしもこの内容はフェアトレードにかかわる人たちが同意するようなものではないと思うし、いろいろな論点がスルーされている部分もあるように思う。 フェアトレードについては素人なので、この文章について気の利いたコメントはできないけれど、フェアトレードについて考えるきっかけとしては悪くないと思う。
以下、ざっくり翻訳してみたので、フェアトレードに興味のある方はご一読を。

新自由主義に強奪されたフェアトレード

[週例討論会]フェアトレード、何が公正か

オ・スンウン(ソウル大人類学科) 2014.03.12 18:28
[討論文-編集者]
「フェアトレード」が伝える「優しいチョコレート」
2月13日のバレンタインデーの日、ソウル市城北区は「優しいバレンタインデー」チョコレート販売イベントを行った。 ここで販売されたチョコレートは「フェアトレード」の国際認証を受けた有機チョコレートだ。 この運動の歴史が短い韓国で、地方自治体が直接フェアトレード運動の主体になったのはとても異例だ。 城北区はすでに昨年、韓国フェアトレード団体協議会と業務協約を結び「フェアトレード先導区、城北」を宣言し、地方自治体で初めてフェアトレード条例を制定した。 フェアトレードの販売拡大、フェアトレード通り造成など多様なイベントで倫理的消費文化の拡散を宣言したのだ。
しかしまだ韓国ではフェアトレードの論理が馴染んでおらず、こうしたフェアトレード製品の流通が何を意味するのか、簡単に思い浮かばない。 個人によって、ただ良い有機農製品を購入することだったり、第3世界の貧しい原料生産者の自立のための寄付だったりする。 あるいはスターバックスのように「フェアトレード」に進出した大企業の倫理的消費マーケティング戦略に巻き込まれているのかもしれない。 他方、わが国のフェアトレード市場の規模は2012年に130億ウォン程度なので、特別な意味を付与することが難しかったりもする。
韓国での本格的なフェアトレード運動は、2007年の韓国フェアトレード連合の結成から始まった。 その過程で「美しい店」、「女性環境連帯」、「トゥレ生活協同組合」と業務協議を結び、そのネットワークが発展した。 そして最近、協同組合の論理の浮上と共に、次第に注目されつつある。 しかしまだ販売網が大衆化しておらず、いくつかの市民団体の協力体制の中で小規模に運営されている程度だ。 そのような面から見れば、地方自治体が積極的に主体になった上の事例は、この運動に今後、どのような展望があるのかを示す事例と考えられる。
今回の週例討論会では、代案貿易運動から倫理的消費者運動まで、多様なスペクトラムと歴史を持つフェアトレード運動について調べよう。 特にフェアトレードの大きな転換点になった90年代中後半の世界的な情勢と新自由主義危機管理政策の全面化がいかなる影響を与えたのかを探り、この運動の歴史的な教訓を見つけたい。

フェアトレード運動の歴史と変貌

フェアトレード運動は、1946年メノー派キリスト教の緊急支援団体である MCC(Menonite Central Committee)がプエトリコの低所得層女性が作った手芸品を輸入したことがモチーフになった。 第2次世界大戦の後にはヨーロッパの罹災者が作った工芸品に拡張され、これは北米初のフェアトレード機構であるテンサウザンド・ヴィレッジの基礎になった。 このようにして救護活動から始まったフェアトレード運動は、1968年に国連貿易開発会議(UNCTAD)で「援助ではなく貿易」が必要だという主張が提起され、低開発国家の発展政策の一環として照明を受け始めた。
その後、70-80年代には「連帯の貿易」として社会運動の性格が強まる。 代案貿易運動と認識され、彼らは政治的見解を明確にした。 たとえば米国のレーガン政府は、独裁政権を追い出して執権したニカラグアのサンディニスタ左派政権に対して禁輸措置を取ったが、これに対抗して「イコールエクスチェンジ(Equal Exchange)」という運動団体はニカラグアの農民と連帯するために、オランダを経由して彼らから高品質のコーヒーと家庭用品を輸入した。 このように、不当な被害を受けている国々と意識的に連帯して不公正な国際貿易システムを改革しようとする政治的運動に発展したのだ。
その後、90年代を経てフェアトレード運動は大きな転換を体験する。 フェアトレードに対する認証制度が導入され、主流秩序に進入する。 認証制度とは、いくつかの条件を満足する製品に対し、フェアトレードを仲介する団体がフェアトレード商品であることを認証する制度だ。 ちょうどKSマーク(訳注:韓国のJISマークのような制度)と似ている。 たとえば原料生産者の場合、販売収益の一定の割合を生産者の共同体を運営するための組合基金として出したり、有機農管理基準を遵守したり、大規模プランテーション事業主ではない小農でなければならない等等の基準がある。 そして彼らから原料を購入して加工製品を作った企業にフェアトレード認証マークを出す。 認証制度の導入後に新しく生じた現象は、大企業にフェアトレード認証基準の審査を受けて認証を受けろというキャンペーンだった。 代表的な事例として、世界的なコーヒー専門業者のスターバックスがある。 もちろん、スターバックスのコーヒー商品の全てがフェアトレードの商品ではない。 実際の売り上げに占める割合は非常に低い。
これは既存の不買運動と違い「このように行動すれば『フェアトレード』と認める」というメッセージを投げるので、企業を引き込むには効果的だった。 こうした戦略は、運動の内部に激しい論争を呼び起こした。 なぜなら大企業に最低限の基準だけを守ることを要求するのはフェアトレード運動が持つ精神的な出発点から遠ざかる結果を生みかねないと憂慮したからだ。 こうした双方の対立は、2011年にも激しくぶつかった。 フェアトレード認証が大企業にもマーケティング効果を与えることが確認されたため、事業的な面からこれを望む立場としては、基準を緩和して簡単に認証を取得できるようにするべきだと強調した。 実際、米国のフェアトレード団体であるFair Trade USAは、これまでの小農協同組合の資格基準を変更し、大地主が所有するプランテーション商品にもフェアトレード認証を付与した。 この決定により、Fair Trade USAは世界のフェアトレード認証機構のネットワーク組織であるフェアトレード インターナショナル(Fairtrade International)と決別することになる。
このように、フェアトレード運動の歴史は大きく3期にわけられる。昔も今も、強かろうが弱かろうが、倫理的な消費と精神的な連帯感に訴える点はすべて同じだ。 だが生産者と消費者の連帯性に基づく運動という性格から、仲介と認証機関による絶対的な規定力が基礎になる運動へと変貌した。 そのような客観的認証機関の登場により、交易量では一層進展したのは事実だ。 だが前に言及した激しい内部の対立からわかるように、現実の権力関係に対応する認証機関としての役割は、危機管理政策の手下に転落する危険が非常に大きいように見られる。

フェアトレード認証制度と公正価格をめぐる対立

フェアトレードの核心は「公正価格」だと言える。 不合理な貿易取り引きから疎外された人々に正当な値段を支払すべきだというその精神から見ればそうである。 ところがこの「公正価格」は市場価格と連動するほかはない。 市場価格を基礎として、ここに「倫理的消費」を引き出すことができる程度の若干の加算価格がつく。 この加算価格は生産者の努力と水準によって決定されるのではなく、第1世界に存在する潜在的な「倫理的消費者」の財布を緩める程度により決定される。 だから「倫理的消費」を刺激するマーケティングが絶対的だ。 そうすることで市場価格との差別化に成功できるからだ。 実際、フェアトレード製品の広告文句には、「世界の貧困と戦うあなたの選択」といったように、感受性を刺激する内容がしばしば登場する。
しかし、もし市場価格が非常に低く設定されると、一定の加算価格がついても生産者にとってはとても低い水準にならざるをえない。 90年代、ベトナムなどでコーヒー豆の生産量が爆発的に増え、2000年代からコーヒー価格が暴落し始めた。 当時、第3世界のコーヒー生産者は途方もない苦痛に耐えなければならなかった。 たとえば2002年にはコロンビア産のウォッシュト・アラビカ1ポンドの国際価格格はたった65.26セントだった。 これでは農民の生活を保障するには非常に不足する。 実際、2002年、フェアトレード協同組合のメキシコのUCIRIでは約150人の農夫が生計を求めて離脱した例もある。
その後、こうしたコーヒー価格が十数年間で着実に上昇したが、前に言及したコロンビアのウォッシュト・アラビカ1ポンドの国際価格格は2011年には283.82セントと、4倍以上上昇した。 これはフェアトレードが保障する190セントを大きく上回る価格で、フェアトレード認証に多くの企業が参加するように誘導できる。 なぜなら企業の立場としては、市場価格とあまり違わない価格でフェアトレード認証制品を消費する階層に簡単に進入できるからだ。 そのため、コーヒー価格がフェアトレードの保障価格の下でまた大幅に下がれば、これは参加企業の離脱を呼び起こすことになる。 つまり市場価格の変動にフェアトレードが従属する状況が生じることになった。 そのため市場価格を安定させようとする別途の国際的な努力が伴わなければ、フェアトレードのシステムも揺らぐことになる。
こうした問題は、消費者だけでなく、生産者にも現れる。 前に言及したように、市場価格が暴落すればそれより若干高い公正価格でも、絶対金額が低いため、生産者の離脱が発生する。 反対に市場価格がフェアトレードの保障価格より高くなればフェアトレードではない他のルートを通じて販売する誘引が発生する。 実際、コーヒー部門でフェアトレードネットワークに参加する生産者にとって、彼らの必要を充足させるにはフェアトレードコーヒーの販売量は非常に不足しているのが実情だ。 生産者も生産量の20%だけをフェアトレードで販売しているだけだ。
こういう現象は、フェアトレードの認証制度が持つ脆弱な性格を表わす。 しばしば想像されるのとは違い、認証団体が完全に販売の責任を取らないためだ。 認証団体は資格を付与するだけだ。 そのためフェアトレード販売網で契約されない物は、一般の市場を通じて販売される。
こうした脆弱性があらわれる理由は、倫理的消費者に絶対的に依存しなければならない構造的な限界と、有機農のようなウェルビーイング品目や、特別な気候と土質で生産される作物に集中する生産条件のためだ。 実際、フェアトレード製品のほとんどがコーヒーであることからこれを確認できる。 そしてその中でも特定の品種に制限されている。 実際、その割合も、世界のコーヒー交易量の1%にもはるかに満たない。 大規模プランテーション農業の構造がすでに構造化されているためだ。 それで前に言及したようにFair Trade USAがFairtrade Internationalと決別し、大規模集団農産品にもフェアトレード認証システムに引き込んだのだ。
このように、認証体系を拡張させようとする政策は、品目を多様化させる過程にもあらわれる。 代表的には、フェアトレード携帯電話だ。 携帯電話に欠かせない数種類の特殊な鉱物があるが、これらの鉱物の生産者に認証団体が提示した基準を遵守すればフェアトレード製品だと認証する。 そしてこれを原料として生産した携帯電話にその認証マークを付けてやるのだ。
こうした認証制度の拡大と変化はフェアトレード運動が持つ弱点から必然的に発生せざるをえない。 公正価格を維持するためには、絶対的に倫理的消費に依存しなければならない構造なので、消費者に品質を保証する客観的制度が欠かせないからだ。 それでフェアトレード認証団体は、現地の生産者に優秀な品質の維持と倫理的な生産過程を遵守するように監督する役割を担うことになる。 しかし現実的に見れば、こうした監督が現地の行政力と結合して、常時運営されなければ、何度かの巡回訪問で終わるほかはない。 結局こうした現実的な問題により、自ずから主流制度への進入と拡大をせざるをえず、過去の代案貿易運動としての性格はますます小さくなる。

収益形成の観点と危機管理政策に照応するフェアトレード

主流制度への進入と拡大は、必ずしも否定すべきことではない。 運動が代案に発展するというのは、他の主流秩序を作ることを意味するものだからだ。 問題は、その過程で権力構造を改革する政治が必ず伴わなければならないが、その過程が抜けている。 たとえば、主に認証制度の拡張について悩む人々は「世界化は避けられない」と考える。 その一方で、新自由主義世界化が世界の貧しい人々に対して否定的な影響を与えることを否定しない。 結局、フェアトレードネットワークは彼らを保護する最も重要な手段の一つだと主張する。 しかし、新自由主義世界化の出現は避けられないものでも、取り返しがつかないものでもない。 世界市場での競争規範が個別の政府が自主的に行動することができなくさせたとしても、こうした状況はほとんどの国家が自ら新自由主義的政治、経済協約を締結することによって作られた。
だがフェアトレードを収益の形成の観点から見る立場の人々は、マクロ経済的な権力関係の不平等に挑戦するのではなく、地域的次元での対応に適応すべきだと強調する。 こうした観点は、国家間の政治経済の力学を無視する結果を生むこともある。 しかしこうした不公平な力の構図はフェアトレードネットワークに編入されるない生産者ばかりでなく、編入された生産者の暮らしも威嚇する。 フェアトレード製品で最も多くの交易量を占めるコーヒー産業の危機が、どのようにして訪れたかを見ればこれを簡単に確認できる。
90年代末のコーヒー価格の深刻な低下は、ほとんどが新自由主義政府と国際金融機構により触発された一連の事件によるものだった。 ICA(国際コーヒー連合)の価格維持システムが崩壊し、コーヒーを生産していた貧しい国家に負債危機が訪れた。 そして世界銀行とIMFの新自由主義政策が、これらの国々に商品輸出を拡大させた。 負債償還に必要な外貨を稼がなければならないベトナムなどの国家は、コーヒーのような商品の輸出の拡大で答えた。 しかし輸出の拡大は、地球的な供給過剰を招き、その商品の価格は暴落した。 その結果、破産、大量移民、全世界の小規模コーヒー農家の飢謹が発生した。 このように、国家間の政治経済力学が現在の伝統的市場のコーヒー価格とフェアトレード市場のコーヒー価格の格差を作った。 ところがこれに対してフェアトレード活動家は、逆説的にコーヒー価格を下げる主犯になるこのシステムに、もっと多くコーヒーを販売するために努力を傾けることで対応しているのだ。(Gavin Fridell)
しかし一方から見れば、マクロ経済的な権力関係から相対的ではあれ、むしろそうした権力関係に照応する形態で作動したりもする。 たとえばフェアトレードは、国連による公的開発援助(ODA)プログラムと政策的に非常によく似た形態を帯びたりもする。 先進国の開発途上国市場への進出や介入計画にフェアトレードの特典を入れる傾向が目立つ。 外国人直接投資と各種国際開発協力プログラムがフェアトレードを媒介に作動するのだ。 「民主主義と自治支援」、「企業家的精神訓練」、「民間パートナー協約」、「麻薬類栽培退治名目」等などにフェアトレードの概念が活用される。
これは、先進国が開発途上国に行っていた援助方式の変化と解釈できるが、実際に先進国の国際開発処から資金を受ける活動家が、こうしたプログラムを通じて旺盛な活動を行っている。 ここにフェアトレード認証機関も関係する。 実際、フェアトレード認証製品が一番多く売れる英国では、認証機関が昨年、韓国ウォン換算で30億ウォン程度の支援金を受けた。 それでも経済危機の余波で、前と違って減っているのだ。 こうした開発支援金はこれだけでは終わらない。 フェアトレード運動陣営が不公平な国際関係の執行者だと非難していた世界銀行からも、プロジェクトの支援を受けることが珍しくない。
市民団体が国家から補助金の支援を受けることが日常化された今日、こうした批判に対して現実的な困難によるやむを得ない選択だと見なされたりもする。 ところが問題は、これが単に金の問題だけで終わらないことにある。 その理由は、歴史的には開発援助プログラムが常に政治的であり、理念的な性格と結びついてきたためだ。 たとえば左派政府が執権する地域では、こうした支援プログラムが縮小または除外される。 あるいは、まったく彼らと政治的に反対側にいたり、中立的な勢力に経済的支援をする媒介体として作動したりもする。 一種のショーウィンドウ戦略であるわけだ。 このように、権力の象徴である金は、その出処によって常に権力関係を再生産してきた。 そのためにフェアトレードにおいても支援金そのものの問題より、それが目標とする政治的性格の方が重要だ。

フェアトレードの歴史から私たちが学ぶ教訓

スターバックスの有機フェアトレードコーヒーの話に誰もが食傷している今日、フェアトレード運動は急激に主流秩序に編入されている。 前に言及したように、各国の政府と地方自治体は勿論、世界的な金融機構までがフェアトレードを始めている。 しかしフェアトレードの歴史にその精神を振り返れば、不公平な貿易構造を改革して、代案的な貿易秩序を作るという抜け目のない夢があった。 たとえその実行方法が倫理的消費に依存するものであっても、である。
ではこの運動が私たちに与える教訓が何なのかを振り返ってみよう。 それは貿易取り引きにおいて、随所に蔓延する不公正な権力関係を暴き、公正に変える努力と闘争だろう。 たとえば先日、韓国ばかりか全世界を驚かせたカンボジア労働者の虐殺鎮圧事態を見よう(参照:カンボジア衣類協会、労働者殺人鎮圧決定的役割、韓国企業も参加)。 1か月10万ウォンも受け取れない労働者が生産する衣類製品の月間の販売総額は数千万ウォンに達する。 10万ウォンが間違っていても、数千万ウォンが間違っていても、フェアトレード運動が指摘した不公正な貿易関係は、こうして私たちが自覚できなかった新しい場でさらに荒れ狂っている。
これは現在のフェアトレードにも同じように適用される。 現地で行われる季節性賃労働者の増加と企業型自営農の増加は、私たちが知らない搾取の問題が潜在していることを暗示する。 収益形成の観点と政治的利害関係が結びつくほどに、こうした労働搾取の問題は水面下に隠れている可能性が高い。
一方では、まだ韓国ではこうした先進国が体験した対立と問題を論じるにはあまりに歴史が浅いと指摘されている。 フェアトレード認証制度を遂行する団体さえないのだ。 しかしそのために、さらに私たちにとってフェアトレード運動が与える教訓を探ってみることが重要でもある。 なぜなら歴史的な発展に基づく自然発生的な流れではなく、外部から挿入された形態で運動が進む可能性が高いためだ。 そしてそれは前に指摘したように、政治的な権力関係により侵食される憂慮が大きい。
一例としてメキシコのサパティスタ運動の地元チアパス産のフェアトレードコーヒーが韓国のホームショッピングで売られている現象を見ると、これが果たしてサパティスタとの連帯を象徴しているのか、でなければイクトゥス宣教会の宗教的な宣教活動の一つの形態なのか紛らわしい。 実際、イクトゥス宣教会は中南米でキリスト教布教活動を目的とする宗教団体だ。 もちろん、彼らの宗教活動が必ずサパティスタと関連しているという原則はどこにもない。 だが私たちにとって重要なことは、フェアトレード運動が意図した当初の意義から抜け出し、その実用性に侵食された現実を果たしてどう見るべきなのかを問い直すことだ。
もしわれわれがフェアトレードの急進的な意味をよみ返らせることができれば、それは生産者と消費者の直接的連帯を通じ、資本間の競争秩序から脱出して生産現場を民主化させることであろう。 これが多少むなしく聞こえるとしても、新自由主義により強奪されたフェアトレードがすでに片側に傾いているのなら、また反対側に戻すことがさらに切実な戦略であるかもしれない。[討論文終わり]
* 討論文整理:ソン・ミョングァン(チャムセサン企画委員)
以下は提案発表文全文。

フェアトレード、どう理解すべきか?

オ・スンウン(ソウル大人類学科)
今では韓国でもフェアトレード製品を買える。 市場に発表された製品ごとに製造会社と内容は違っても、主原料が輸入される時、フェアトレードの基準が遵守されていればすべてフェアトレード製品と呼ばれる。 包装紙に刻まれた公認ロゴが該当製品が本当のフェアトレード製品であることを保証する。
このようにフェアトレードは、「フェアトレードのロゴが入った製品」という自明な物の姿で私たちの前に登場した。 しかしその完成の過程が私たちの目の前で直接見えない限り、私たちにとってフェアトレードはとても漠然とした何かでしかない。 フェアトレード陣営が直接フェアトレードについての説明をしてはいるが、その説明も手で触れない抽象と観念を羅列しているだけだ。
このような状況でフェアトレードを批判的に理解することは、その進入点からして不明なことのように見える。 しかし質問の中に答があると言う。一番確実な方法は、フェアトレード陣営が私たちに提示するその抽象と観念から食い込むことだ。

0. 経済的観点の不在

フェアトレード陣営に今の名声を持たらしたのは、世界貿易の構造が第3世界の貧困の原因だという批判ではなく、その構造を直接変えようとした行動力だった。 彼らはフェアトレードという代案貿易モデルを実験して、その適用事例を増やすことで全ての貿易秩序を変えることができると話す。 小さな代案の花を咲かせて巨大な現実を覆ってしまおうという計画だ。
この美しい計画の真価を確認するためには、その計画の構成要素が世界貿易構造を正すという本来の目標をきちんと示しているのかをよく確かめてみなければなるまい。 もちろん、われわれはフェアトレード陣営が自らフェアトレードを説明する言葉と文などで、彼らの計画が示す方向をぼんやり感知できるだけだ。
[世界フェアトレード機構(WFTO)が発表したフェアトレードの10項目の原則]
  • 経済的に疎外された生産者のための機会の提供
  • 透明性と責務性
  • 公正な貿易慣行
  • 公正な価格支払い
  • 児童労働と強制労働禁止
  • 差別撤廃、性平等、結社の自由に寄与
  • 良好な労働条件の保障
  • 力量強化の支援
  • フェアトレード広報
  • 環境の尊重
ところでフェアトレード陣営は、彼らの計画を案内する長くて短い文書で労働と価格、発展などの経済的概念を押し出しているにもかかわらず、経済に関する体系的かつ根本的な観点を提示することを避けてきた。 つまり経済に関連して、表層のさまざまな要素を先頭に立って変えながらも、そうする理由を一つの経済的な観点から説明していないのだ。
フェアトレードのこうした「観点」の問題は、これまでフェアトレードをめぐる議論ではあまり扱われなかった。 ここには何よりもコーヒーやバナナ生産の現場が一般的なフェアトレード製品の消費者から遠くに位置する現実の背景が大きく作用したと見られる。 フェアトレードを疑って検討する決定的な契機は、とても遠にあるということだ。 多くの脱植民主義研究者が指摘するように、その間隙の背後には物理的な距離だけでなく、植民主義の歴史とその歴史が作り出したヨーロッパ中心の叙事と知識がある。 私たちがフェアトレードを開発途上国の経済と結ぶ新しい関係の代案として受け入れる前に、これまで開発途上国経済を理解するために慣習的に動員してきた主観的な要因が何なのかを十分に反省しなければならない。
上の問題意識により、この文は経済的な観点、つまり物質的な次元の観点を生かし、既にフェアトレード陣営が作り流布してきた正義(justice)の論理としての「フェアトレードの論理」を代替する新しい説明を出し、究極的にはフェアトレードを批判的に理解するための一つの端緒を用意することを目標とする。 認識的な次元についての議論まではしないとしても、それについても一定の予備議論を提供できることと期待する。
本格的な議論に入る前に、次の前提を明確にしたい。
最初はフェアトレードが、ただマクロ経済的モデルだけで意義を持つということだ。 明らかに、この仮定は世界貿易構造を是正して、開発途上国の貧困を解消するというフェアトレードの公式の目標であり約束に基づいている。 あれらの表現でわれわれは、フェアトレードが呼ぶ「生産者」という名が、農作業をしながらやっと子供を学校に送り、病気になれば病院にも行くといった具体的な人間でなく、国際貿易に関して大部分の開発途上国が置かれている貧困の現実を全体的に示していることが分かる。 言わば、フェアトレード陣営が「不公正貿易」の真実を発見する視点は、最初から地球的であり、また一般的だ。 それでも実際に現実として、フェアトレードは中南米とアフリカ、アジアの全輸出経済人口の中では数的にきわめて制約的であることに加え、産地認証制度による条件付きの参加だけを集めることで、一般的な開発途上国の貧困の現実を把握するためのきちんとした標本集団さえ作れなかった。 理想と、その実現の方式の間でのこうした乖離は、フェアトレードの基本的な欠陥だ。 この欠陥を問題にするという意味で、今後の議論はフェアトレードが開発途上国の経済に一般的に適用されるべきモデルだという観点を押し通すことにする。
二番目は、フェアトレードが植民主義と新自由主義の時代を経て、確立し深刻になった世界資本主義構造で胎動し、相変らずそこに根をおいているということだ。 この仮定は、近代資本主義に対する歴史的な洞察を要求し、そのような洞察を通じてわれわれは今の貿易構造が支えている現実をより広く分厚く理解することができる。 例えば不公正貿易という事態の外観は、開発途上国を数世紀にわたり(そして最近の新自由主義の時期に急進的に)輸出用生産経済に縛りつけることで、その反対給付として先進国が各種の生活必需品を安く多様に消費しつつ(労働大衆の生活費用と賃金が安くなるという点でこれは資本にとっては特に利益になる)、さまざまなサービス経済分野を開花させた(つまり多国籍流通資本だけが利益を得たのではない)グローバル関係のイメージを反映している。 同様の観点で「植民性(coloniality)」の研究者ウォルター・ミニョロは、植民地のプランテーションと鉱山で消耗したアフリカ奴隷と先住民が、名誉革命やフランス革命よりさらに確実な近代性の基礎だったと断言する。 全人類史の進歩とされる西洋の政治的な事件も、厳密には植民地経済から奪った莫大な富に負っていると批判される。 こうした指摘はフェアトレードの約束のように、世界の貿易秩序を変えるにはビジネスの慣行や消費者倫理の次元を越える、さらに根本的かつ全面的な対抗企画が必要であることを示唆する。
上の2つを基本前提として、以下の議論ではフェアトレード生産の一要素の「小農」に注目し、それからフェアトレードの物質的な性格をとらえ直したい。

1. 「小農」という資格

開発途上国の貧しい農民だからと言っても、誰もがフェアトレード生産者になれるわけではない。 その条件と優先順位にはさまざまな議論があるだろうが、実際の資格になる基準はフェアトレード陣営がすでに決めている。 フェアトレード陣営は、フェアトレード生産者の資格を1)国外市場需要に合わせて品質を改善しなければならず、2)村内の民主的な意思決定と分配のために生産者協同組合を組織しなければならず、3)生産活動状況の性平等と児童保護、環境保護に努力しなければならないと要約して伝えている。
3種類がそれぞれ別個の懸案と考えられる上、内容にけちをつける隈もなさそうに見える。 誰が見ても良い言葉だ。 しかしこれらすべての条件を貫くたった一つのキーワードは別にある。 フェアトレードという名の下で、私たちが公正を論じる範囲と水準を指定する、密かながら強力な装置 ─ まさに「小農」だ。
フェアトレードの文書を読むと、すでにその導入部から開発途上国の農民が「小農」と言い換えられていることが確認できる。 フェアトレード生産者になる資格が少数の例外品目を除けば、小農(零細自営農、家族農)に限られるためだ。 こうした資格規定により、フェアトレード陣営は小農という名が全ての開発途上国の農民を代表していることを断言する。
では、どのような代表性なのか? 確認のために、総価値を基準して第2位の規模の国際貿易品目で、全てのフェアトレード事例の70%以上を占める品目のコーヒーを例にあげてみよう。
フェアトレードの論理による「コーヒー小農」の代表性は、1)多くの貧しい国々の経済がコーヒー輸出に依存しており、2)個別のコーヒー農地の大きさを基準として小規模農地の数が大規模農場の数を大幅に上回っていることを示す統計指標により正当化される。 コーヒー小農が第3世界の人口構成で一番比重が高い集団だとか、少なくとも貧困に関して最も有意味な集団だと言っているようだ。
続いてコーヒー小農は、世界市場の急激な変化により生計を直撃されても、それに対応したり対処する資源が殆どない、地球上で一番周辺的で脆弱な経済主体として描かれる。 この時の急激な市場の変化は、常に国際コーヒー価格の暴落という事態で予告され、またその価格暴落は小農が生産費用も保全できない程だという規定を重ねて完全な「危機」としての意味を確定させる。
その証拠としてフェアトレード陣営は「公正な価格」の意味を「少なくとも生産費用を保障する価格」と定義する(最近は「人間らしい生活が可能な価格」という表現を使うこともある)。 では、国際価格の暴落を問題にする彼らの態度は、その暴落の資本主義的な真実を暴こうとしているというよりも、小農にも少しは残る金があってもいいのではないかという極めて常識的な問題提起の水準をぐるぐる回っているわけだ。

2. 小農の独走:農村経済から排除された所有と労働の争点

フェアトレードの論理において、小農は流通過程では暴利を取る中間業者と多国籍企業に自分の持分を奪われ、生産領域では大量に低賃金労働者を使う大農場主との不公平な競争関係に置かれている二重の弱者として描かれる。
小農と大農場主-中間業者の-多国籍企業を対決させるこうした構図は、通念的な善と悪のイメージと巧妙に結合し、容易にフェアトレードに道徳的な正当性を付与するが、それと同時に開発途上国の未来の展望を家族中心の単純な人生、人間的な苦労、少ない欲、親環境などの道徳的な観念に縛りつけかねない。 第3世界の農民が現在の世界経済に占める位置を、土着性の一要素に束縛する憂慮もある。
決定的には小農の道徳的な純粋性を仮定するフェアトレードの生産者資格規定は、開発途上国の農業現場に蔓延する賃労働(主に移住労働と季節労働の形態)の現実に目を塞ぐことで、農村経済という主題と、所有および賃労働の問題を分離させる。
小農と大農場主は、農地の大きさが違うだけで、すべて個人所有の土地で農作業をして、先進国の消費市場を目標として輸出競争をする資産所有者だ。 大農場でないからといって賃労働者を雇用しないわけでもない。
最近のフェアトレードの成功事例としてよく紹介されるドミニカ共和国のバナナ生産者の例をあげよう。 個別のフェアトレード生産地で商業的に成功するためのたった一つの戦略は、国外の販路を確保し、拡大することだ。 つまりフェアトレードバナナの生産者の商業的な成功とは、彼らの生産物を買う国外のバイヤーが安定して確保できたことを意味する。 一般的に販路の拡大は、生産規模と労働動員の拡大を伴うので、ドミニカ共和国のバナナ生産者も商業的な成功に相応し、賃労働の雇用を拡大してきた。 この時、ドミニカ共和国が公式に集計した賃労働者全体の数の半分以上(一部の仮定値では約90%)は、ハイチのように最近経済が破綻した近隣諸国出身の移住者で満たされる。 フェアトレードバナナを好むヨーロッパ内のニッチ市場が、その供給先をドミニカ共和国に指定した結果だ。 フェアトレードがカリブ地域の内部に地理的な階層構造を形成しているように見える項目だ。
フェアトレードがドミニカ共和国の移住労働者問題を看過しているという巷間の指摘に対し、国際フェアトレード機構(FLO)はドミニカ共和国政府に移住労働者の処遇改善を要請すると回答した。 この回答は、所有と労働の問題を明らかにフェアトレードの外側に押し出している。
こうした「押し出し」は、フェアトレードの公式文書で公正価格を算定する問題が重く扱われないという事実ともよく合う。 公正価格は農産物購入者(主に先進国の製造および販売業者)が生産者側に義務的に支払うべき価格で、そこからわれわれはフェアトレードが言う「正当な補償」の水準を客観的に確認できる。 こうした重要性にもかかわらず、フェアトレード陣営は公正価格の値段を品目別、生産地別、時期別に公示するばかりで、その算定方式について公開的な検討も討論もしなかった。
このように、フェアトレード陣営が物質的な現実に対する伝統的な左派的な争点を排除した結果は何か? 最も眼につくものの一つは、フェアトレードが急進的な思考から抜けだした消費者運動と倫理マーケティングの領域の中に安全に巣を作ったということだ。 つまりフェアトレード陣営は、政治的な異論が噴出しかねない議題を最初から落としてしまった。 そしてフェアトレードは倫理の世界で華麗に浮上した。

3. 小農についてフェアトレードが語らないこと

小農は、広大な世界市場の中で一人で畑を耕す個人ではない。 小農は社会的な集団でもある。 社会的な次元から見ると、第3世界のコーヒー生産者に小農が多い現実は、次の2種類から理解できる。
一つは小農が国家主導の土地改革と管理体制の遺産であるということだ。
自分の土地を分配された住民が、一群の公共政策との関係の中で、国全体の農業生産性を上げるために動員される様相は、20世紀の中南米の歴史であたりまえに発見できる。 国別に差はあるが、今の農業政策の基調は政府が主力輸出用作物を選定し、生産手段を一括支援して生産物の買入と輸出を独占して、農業技術が社会的な次元で研究され訓練されるなどの内容を骨子としている。 メキシコのインメカフェ(INMECAFE)プログラムが代表的だ。
このように、国家が自国農業の生産と輸出を直接管理する制度は、コーヒーの輸出国と輸入国の間の多国間で結ばれた国際コーヒー協定(International Coffee Agreement、ICA)と対になっている。 1962年に初めて締結された国際コーヒー協定は、国家別の輸出量を指定するクォーター制に基づいて国際コーヒー価格の安定を試みたが(それさえも積極的な交渉というよりは価格をポンド当たり$1.2〜$1.4程度に固定することに目的があった)、東欧圏の没落と共に中南米のソ連化に対する憂慮がなくなった米国により、1989年にその効力が失なわれた。 冷戦に勝利した米国は、世界銀行-国際貿易機構(WTO)-米内務部間の結束体制を構築し、すべての国際社会に新自由主義の理想を受け入れさせるように実力を行使した。 借款と援助が重要な開発途上国の政府が一番早く変化を証明しなければならなかった。 既存の農業管理体制は「単一な世界市場」の理想を侵害するという理由で禁じられた。
では第3世界の小農が無防備状態で冷酷な世界市場の荒波に追いやられた最も直接的な理由は、新自由主義的な経済改革が小農の存在を重く考慮しなかったためだ。 つまりフェアトレードは、中南米の左派政権と保護貿易の基調が崩壊した廃虚の中で出現した。 フェアトレード陣営が上の歴史的な過程を説明しないまま、小農がまるで自分たちの市民社会や国家制度を持ったことがない牧歌的な仮像であるかのように描写する限り、フェアトレードも小農の存在を重く考慮しているとはいえない。
第3世界の市民社会と国家制度が崩壊した歴史的な過去は、フェアトレードの単純な出発点を示すだけでなく、現在進行形で続いている。 われわれはなぜフェアトレードコーヒーが品質を優先視すると同時に、近来は国外の資本に扉を開放した国々で多く生産されるのか、さらによく理解できる。 たとえばカガメ大統領の強力な経済改革の風の中、この数年間で高級スペシャルティコーヒーの生産地として急浮上したルワンダでは、コーヒーの品質改善を名目として生産地ごとに水源地と直接連結する洗浄施設が建設されている。 この時、施設の運営と所有権は、設立に直接投資して「品質向上を支援した」国外の資本に与えられている。
もうひとつ、われわれは小農中心のコーヒー生産経済が資本主義的生産の有力な形態である大量生産体制から抜け出している点に注目する必要がある。
資本主義の悪い性質を直そうというフェアトレード陣営の意志が面目を失うほど、今日の小農中心のコーヒー生産地は明らかに資本主義が未発達な国々に形成されている。 同じ国内でも、輸出用の低賃金工場が入る都市の産業地帯とは別に、小農中心の農村は慣習的な所有権の観念(農地だけではなく各種の天然資源や種子・農薬・認証制などをめぐる知的財産に対してもそうだ)と作法などに相変らず依存している点で、世界資本主義体制に十分に編入されていない一種の辺境として残っているのだ。
コーヒーに投資する世界市場の大きな損失が、このようにコーヒーの直接生産者を「未開拓」の状態に放置しておくのは、果たして何を語るのか? 可能な返答の一つは、コーヒー生産経済を大量生産体制に発展させなくても利益を創出するための大きな障害ではないということだ。 今もコーヒー価格は十分に低く、その水準を維持する世界的体制も堅固だ。 資本家がいちいち動いて大量生産を組織して、労働力を管理する必要はないということだ。 実際に、コーヒーを扱う国際資本は開発途上国で生産されたコーヒーを金融市場と連動させたり、流通・加工を独占する方式だけで莫大な利益を上げている。 例えばスターバックスが収益をあげる主な方式は、消費者価格が着実に上昇するという前提で、先物市場価格の急落による大きな差益を狙って1年分のコーヒー供給契約を一度に締結することだ。
最後に、開発途上国の国土にはまだ資本の利益になるような資源は無尽蔵にある。 簡単に水源地のような自然資源と生産活動全般に影響する種子や農薬、各種の環境規制などを思い出そう。 伝統的な土地所有権が一気に廃棄され、食糧市場に投資しようとする国外資本に小農の根拠地が一気に「強奪」される事態もたて続けに報告されている。 第3世界の小農を世界市場の堂々たる一員に引き込み、買入価格をもっと公正にしようという素朴な提案は、複雑化し続ける資本主義の流れからはるかに遅れて久しい。

[参考1]フェアトレード特典の物質的性格

  1. 特典の内容構成:最低価格保障+流通段階短縮+その他技術的支援(品質向上教育および金融サービス)
    *例:現行のフェアトレードコーヒーの買入(本船渡し(F.O.B))価格は高級品種のアラビカ豆に限り1ポンド(約450g)当たり$1.35〜$1.40が生産物に直接(有機農認証時は$0.30追加)支払われ、$0.20は生産者協同組合の共同基金に積み立てられる。
  2. 特典の条件:小農の生産者協同組合組織または加入+品質改善および維持+会計と使途の報告
  3. 特典が可能な背景
    • 高級コーヒーの需要の増加:高級コーヒーの供給を安定させたい資本の必要+最適の生産地を確保したい資本間の競争
    • この十年間の国際コーヒー価格の上昇
      *例:コロンビア・ウォッシュトアラビカの1ポンド当たりの価格は2002年の65.26セントから2011年には283.82セントと4倍以上上昇し、これは現在フェアトレードが保障する最大値の190セントを大きく上回る。

[参考2]倫理世界でフェアトレードの浮上

フェアトレードは国際コーヒー価格が約十年ぶりの暴落を記録した2002年の前後に、ヨーロッパと北米で大きな支持を得た。 当時、フェアトレードの浮上は、1)90年代に債務国から強要された新自由主義的構造調整の結果として開発途上国のコーヒー生産経済が続々と「自由化」されている間にベトナムのコーヒー生産量が爆発的に増加し、2)その反射効果で先進国の大衆がスターバックスのような多国籍企業の繁栄を直接目撃して、それらの企業が主導する消費文化を享有するようになり、3)新千年紀を控えて国際社会が新自由主義的世界化の弊害を認めざるをえなくなった同時的な事態を背景とする。 大衆的抵抗と国際連帯も組織されていた。
そしてこの十年間、スターバックス、ネスレ、ウォルマートといった食品製造および販売分野の巨大企業がフェアトレード参加を宣言し、有名小売店に彼らのブランドを付けたフェアトレード製品が配置され始めた。 しかし現行のフェアトレード認証制が実行されてから15年経った今の時点で、これまでフェアトレードが市場戦略であれ、開発途上国発展戦略であれ、眼につく成果を上げられなかったという事実は、フェアトレードを最初から再検討することを要請する。 フェアトレード陣営が掲げた各種の道徳的な修辞や仮像、楽観的な展望を取り払って、フェアトレードに関する議論の枠組みを完全に変えるべき時だ。
原文(チャムセサン)

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